CGMのクオリティ

先日のダウンロード違法化どうこうのエントリがめずらしくマークされてて、そこにプロは金使って録音のレベルがどうこうとあって、なんか根本的に音楽の聴き方の違う世界があるんだ、と思った。ピュアオーディオを愛好する人がブログに書き込む内容に近くて、音質がどうこうという聞き方はオーディオ機材愛好家のスタイルなのかと思っていた。でも、音質や録音状態さえ良ければなんでもいいのか、という話ではないはずで、それ以前に、パフォーマー自身があり、そこに表現されるものがある。その表現しているものの良し悪しがクオリティであって、音質云々は良ければ良いに越したことはないという程度のものでしかない。ネット小説でもこれは同じで、箸にも棒にもかからないような作品であっても製本されて、ドラマ化されれば良い作品なのかといえばそんなこたない。その箸にも棒にもかからない作品とは何か、というのはここでは書けない。
パッケージをどれだけキレイにしたってクズはクズ。パッケージと作品のクオリティは全然別の話だ。だけど、そうなるとクオリティを測る尺度というのは途端に曖昧になってしまう。表現されているもの、ではなく、そのパッケージの程度がクオリティの尺度にすりかわってしまうのはそこに原因があるのだろう。その方が解りやすいからだ。作品を理解できなくても、パッケージなら理解しやすい。キレイか、そうでないか、結局はそれしかないのだから。
もう少し穏当な言い方をすれば、「もっと金をかければずっと良くなるのに」と思わせる作品はそれだけで十分クオリティが高いのであって、そうではなく「もっと腕があればずっと良くなるのに」という作品はクオリティが低い。自分はこれを小説だろうと音楽だろうとドローイングだろうと変わらない尺度にできると考えている。
まあ、結局は「自分はこうしている」という程度の話にしかならないのかもしれないが。