電脳コイルとノーライフキング

昨日の「電脳コイル」でリアルという言葉が出てきたとき反射的に連想したのが「ノーライフキング」だった。ノーライフキングって映画では否定的に描かれるのだけど、小説では「死生観」を認識する新しいフレーム(新しいリアル)の物語なのだった。子供達はゲーム(を取り巻く都市伝説)を通じて(復活することのない)「死」を強く意識するようになるのだけど、対する大人たちが死を日ごろ意識しているかといえば、そんなことはない。その意味では、大人たちが日常暮らす空間の方がむしろニセモノくさい。死は確実に訪れるものだからだ(そして誰もが自分の死に触れることはできない)。
ヤサコがデンスケのロストを物理的なペットの死と同等のものとして認識したのであれば、ヤサコは自らのリアルを拡大していたと言えるのではないか。別にそれは良し悪しではなく、単なる認識の問題でしかないのだけど、遠い国の戦争や飢餓に目をつぶり「見えなければ存在しないのと同じこと」と嘯くかどうかという違いに通じるような気がする。
ただまあ、残り2話にもなってそんな話は持ち出さないな。