何もしないで価値観の多様化が図れるという期待があったらしい

ということを漸く最近になって知る。そんな気はしていたんですけども。情報があふれかえるほどその価値付けが必要になる、とかそんな複雑な話かい。単にネットへ参加している我々自身が「こちら側」のバイアスを捨てられるわけではないのだから、参加者が増えれば増えるほど、その総体として見えるバイアスは「こちら側」のそれを反映していくだけのことでしょう。そしてもちろんミクロでは「あっち」や「こっち」を向いたベクトルはあり、ただ埋没しているので見え難くなっている。
その小さなベクトルを大きくしたいのなら、あるいは潰されたくないのなら、異なるベクトルの中で使われる言葉で自分のベクトルを説明していくしかない。要するに「理解を求める」ってだけですが。(しかも、それでうまく行くという保証はない)
ただ、自分はこういうことを殊更新発見だとは思わない。そんなことは「こちら側」ではネットの登場する以前から延々繰り返されてきたことなのだし。卑近なところでは(今では笑い話で聞くこともある)かつての「SF者」の立ち位置とか。要はそうした説明するコストを厭う人たちがかつてネットに後退し、そして今度はSNSへ後退しつつあるということなのでしょう。「マイノリティヘイブンへ前進した」という言い方もできるかもしれませんが。
今はまた、「あちら側とこちら側の二つの世界があって、あちらの方がすごいんだ」とアジっているベクトルがあるわけですが、彼らのアジによって「こちら側」からの参入量が増えるに従い、彼らもまた同じ失望感を覚えることでしょう。
でも、不動の「こちら側」とか「彼ら」がいるわけではない。まず、自身も「こちら側」や「彼ら」の一部であるのだし、働きかけることで変化もする。むしろ「こちら側」や「彼ら」から積極的に分離しようとすればするほど、そういったものはますます強固なもののように見えてしまうでしょう。なんていうか、自分と世界を対立物のように捉えているベクトルがあるように思います。かと言って、もちろん「一体化」なんかしているわけでもなく、つまり「部分」だと思うんですけどね。念のため言っておくと「世界は自分の一部」という意味ではなくて、その逆ですけども。