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■やたらとサリンジャーづいているDVD6巻なわけですが、それに収録された11話『タチコマの家出 映画監督の夢』がなんか妙に気に入ってしまいました。特に前半の「タチコマの家出」パート。ミキって女の子がタチコマに『ひみつの金魚』というお話(お嬢ちゃん、その歳でサリンジャーを読んでるの!)を語るのだけど、タチコマはその機微を感じることができない。AIってこれだからやーね。

『ひみつの金魚』という話は、大好きな金魚が死んでしまったことを周囲の大人たちに知られたくない女の子の話で、聞けばなるほどというか、まぁ、そういう気持ちになる年頃ってあるよねという話なのだけど、タチコマはそのお話の主人公がなぜそのように振舞うのかが理解できない。

 タチコマは人間が親しい存在の死に接したときに悲しむことは理解できても、同じように悲しむことはできないと(いうような意味を)独白する。自分にはゴーストが無いからかな、と結論つける。ゴーストが無い、つまり魂を持たないからだと。攻殻機動隊で言うところの「ゴースト」は幽霊・お化けの類のゴーストではなくて、『機械の中の幽霊』(アーサー・ケストラー)にちなんでのゴーストなのだけど、それはさておき。

 自分が死なないから、ゴーストが無いから、死というものを理解できない。人間が悲しむ理由がわからない、という。ここで言う理解できないというのは、現象という意味ではないだろう(たぶん)。死にまつわる人間の心理的な動きのことだろう(きっと)。

 タチコマは死なない。タチコマという機械は同型のものが6機(?)あって、1日の作業が終わると記憶の同期を取ってしまい、個体差をなくす。そういう意味では「タチコマたち」はいても「タチコマ」はいないと言えるのかもしれない。逆かな? 1つの「タチコマ」はいても、「タチコマたち」はいない。──ともかく、タチコマが「ボクは死なない」というのは、個々のタチコマ(と呼ばれる機体)にとって死が意味を持たないという意味だ。

「人生は記憶だ」というのは、『イルカの森』(『言葉使い師』収録/神林長平)の題辞だけど、その記憶を他と同期してしまうタチコマにとってみれば、個々の機体にバインドされた「生」というものがそもそも無い。個々のタチコマは(機械だから、という意味ではなく)生きていないのだから、当然死ぬはずもない。人生の終わり、という意味の死をタチコマは知ることができない。

 もっとも、いつまでもメンテされ続けるわけではないのだから、いずれは「タチコマ」の記憶が途絶える時がくる。その時はタチコマにとっての人間の死と同じく、人生の終わりを意味するはずだ。でも、それでも、他人の死を悲しむこととは別の次元だろうなという気がする。

「いきてかへらぬ」ことの「あはれ」(DVD同梱のコラムより)は、たぶんこの世に2つと無いものがこの世から失われることを惜しむ感情がベースにあると思うのだけど、それはタチコマが死について理解することとはまた別の回路が必要なんじゃないかと思う。